昭和50年01月06日 朝の御理解
御理解 第11節
「神は天地の守りじゃから、離れる事は出来ぬぞ。」
御理解 第12節
「神に会おうと思えば、庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」
御理解 第13節
「神は向こう倍力の徳を授ける。」
生きとし生けるもの、ありとしあらゆるもの、天地の親神様のご守護、又は御恩恵に浴しなければ生きとし生きることが出来んのです。ありとしある事すらも叶わぬです。天地の親神様の、そうした御恩恵の中にあっての事。又はそういう御恩恵あっての生きておる印、生きておる印を私共が、解らせて頂くと言う所に信心があります。又神恩報謝の心も、そこから起きて来るのです。
「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ」と。それは外へ出て見なくっても家の中でも同じです。けれども矢張り外へ出て見ないと天が拝めない地が拝めないね。内から拝んでもいいけれども矢張りね。お広前に出て来なければね一歩外へ出ただけではないね。寒い又は暑いを突いて言わばお広前に出て来る。そして初め観念的に解っておる神様がね。言うなら実在の神として感じる事の出来れるおかげを頂く為には、ね。
言うならば本当に神に合いたいと思えば、庭の口を外へ出て見よと仰せられるのは、本当に生きた神様を、そこに感じる事のおかげを頂く為には、お広前に出て来なければ、内を一歩外へ出てお広前に出て来る。御取次ぎを頂く其処からです生き生きとした神の働きを見る事も、感じる事も出来るのです。しかもその十三節にね。「神は向こう倍力の徳を授ける」と仰せられる。どうでもだから出て来なければいけない事になります「神は向こう倍力の徳を授ける」矢張り向こうて来なければいけない。ね。
金光様のご信心はね、他に修行がないのです。取分け今合楽では、ね。表行と言う事がもう全廃。いやそれを厳しく、表行はもういけない。限りないもう尽きぬおかげに触れる為には、ね。神力、所謂無限の神力に触れさせて頂く為には、先ずは自分の人力と言う物を捨てなければ出来ない。そう言う所から、所謂表行はもうしてはならんと、今、合楽では厳しく言われる訳です。ね。言うなら火や水の行と言う事です。そう云う行をして拝むのではなくてです。神は向こう倍力の徳を、向かうと言う事は、ね。
心で向う心の言うなら動きがそのまま神へ向う。それを私は参拝、ね参拝の修行だとこう思うのです。心が神に向かう。此処にも又修行を抜きにしては向われません。神に向かうからには、矢張り向かう心の状態と言う物を、おのずと見る様になります。ね。見れば見る程自分の心の状態と言う物が、お粗末である事又は、ま、言うなら汚れ果てておる事。ね。其処で是ではならぬと言う所に、ね。信心の我が心が神に向かうというのは、そういう事なんです。こういう心の状態で、例えばお参りしても拝んでも。
其処でその心の状態をです、ね。正して行くと言う事。昨夜壮年部会でしたが、最後に石井清さんが、こう言う様なお話をしておりました。ホコリがあると、ね。言うなら部屋の中が散らかっておるとか、ホコリがあると言う事がおかげだと。だからそれを掃除、清めた後にすきっとする心が頂けるのだと言う事を言ってます。その通りです。ね。私共の心も、私は汚れとらん。私の心は一つも乱れていない。何時もきちっとしておる。そう言う事はない。もう見れば見る程、信心の光りが心に灯れば灯る程。
その光が、段々、大きい光りになって来れば来る程、今まで気が付かなかった、言うなら隅々のホコリまで見えて来る様になるのです。いやぁ此処にはこういう散らかっておった。そこでそれを取り片付ける事に専念する。気持ちが悪い散らかってるのが解るのですから。そしてそれを取片付けた時に、スキッとした心が頂けると言うのです。そのスキッとした心がおかげをキャッチする心だと言う事だと言う、ね。
もう昨日お掃除したけん、今日はせんで良かち言う事はないと言う事です。しかも信心の場合はです、心に信心の光りが灯って参りますから、しかもそれが小さいほんんら燭光の光りから、段々大きな燭光になって参りますから、ね。広い範囲で深い範囲でその汚れも、散らかりも目だって見えて来る様になる。ね。だから又其処をほんならお掃除をする。すればする程ほんなら、矢張り心がすきっとして来る。そういう心でね神様へ向うと言う事になるのです。ね。ただ向う。
神は向こう倍力の徳を授ける、ね。そこでその向う迫力も又はその向かう心の状態も、段々おかげを頂いてまいります。其処に私は徳一番、十一節にも申します様にね。神は天地の守りじゃから、離れる事は出来ん。それこそ生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものがです。天地のご守護の中にあるのだけれども、そのご守護受けておる事すら解ってない。解らない。ね。それを信心させて頂く者は、ね。
言うならば頭が痛いとか、咳が出るとか、ね。熱発をしておるとかという、そう云う中にでも、生きておる印であると言う自覚に立つから、ね。熱のある事も生きておる印として、お礼が言えれると言う事です。ね。心の中に色んな、ね。まぁ欲悪煩悩の心が起こって来る。是も生きておる印であると言う事が解って来るのです。そしてそれで良いのではない。愈々我が心が神に向かう為には、是ではならじとその、ね。その欲悪煩悩から、それを言うなら我情我欲です。
御道の信心で言いうと、我情我欲の中からのその我を取り、ね。我情から離れて行くという精進をさせて貰う事に、段々なって来る。初めて神徳の中に生かされておる。天地の親神様が、ね。離れる事は出来んと仰せられるが、確かに天地の親神様の御恩恵のお懐の中にあるという実感が、もうひたひたと心の中に通うて来る。ね。それに浸る事が出来る。其処に我が身は神徳の中に生かされてある喜びが感じられる。ね。
そこに神恩報謝の心は、愈々募って来るばっかり。そう言う心で、愈々神様へ向う。そこにです、私は、信心をさせて頂く者の有難さと言う物があると思う、ね。ありとしあらゆるもの、生きとし生ける者の上に、神様は満遍なく一様に御守護、お守り下さってある。それを先ずは気付かせて貰う。それを実感する。それを教えるのが宗教だと。昨日一昨日の御理解ですかね。
宗教とは、先ずそこを、解らせ自覚させる。所謂悟らせると言う事なんです。ね。生かされて生きておると言う事。その事実が解らせて頂く所から、有難いと言う事になって来る。そこでです只今、私が申しました様な事が、ね。段々解って来て、その実感としてです、神様へ向こう、向こう、言わば姿勢というか、ね。どう云うあり方にならせて頂いたら良いかと言う事になるのです。
三代金光様のお言葉の中に、ね。「神信心には、辛抱する事が大切で御座います。一番大切で御座います」と仰せられておる。「神信心には、辛抱する事が、一番大切で御座います」とね。親金光様四神様がお隠れになった。まぁだ御年十三歳でおありになった。四神様はもう、金光摂胤と申し上げましたからね。摂ももう十三歳になりましたから、私の後がやっていけれる。ね。ですからその叔父様達に当たられる方達に、ね。それこそ出たり入ったりしながら、ね。
金光家に出たり入ったりしながら、あの摂胤の御用を見守ってやってくれと遺言なさった。ね。そこで金光様は、小学校を中退されました。そして早速、父金光様の後をお受けになって、御結界に奉仕されて、そして何と七十年間、ね。もう本当にです、ね。もう人間としてとても出来そうにも思えない事を、言うならば御修行し抜かれた。その間にはね。始めの間はもう、辛うて辛うて、よう泣きましたと仰せられた。ね。ご述懐のお言葉の中に、始めの間は辛うて辛いうて、よう泣きました。
遊び友達がお広間の近所に入って来る。そすと思わず御結界を立ちよりなさったそうです。流石におられる偉い先生方が、「金光様」ち言うてから制する訳です。そすとまた、それこそ座っておられる。泣く泣く矢張り座っておったと。ね。それでも親様がね、座っておれば楽じゃと仰せられたから、ね。泣く泣く辛抱し続けた。辛抱し続けておる内にです。思う事も無くなり、欲しいものも無くなったと仰せられた。是がもうまさに、我情我欲を離れた姿です。あぁしたいこうしたい。
是は我情です、ね。あれが欲しい是が欲しい。それが我欲なんです。ね。所謂与えられる物だけに甘んずる生活。ね。自分であそこに行きたい。此処に行きたいと例えば思おうても、それを辛抱すると言う事。ね。こうでなからにゃならんと言う様な思いを捨てると言う事。そこにね。在るがままに又は、成るがままにの生活が始まる訳であります。ね。始めの間は辛うて、辛うてよく泣いたと、けれども辛抱しておるうちに、その思う事も欲しい事も無くなって、ね。
有難うして有難うしてと、有難うて有難うてと言っておられます。そしてその有難いおかげに対する、お礼の足りないお詫びばかりをしておると、最後に結んでおられます。あれだけのご修行が出来られて、まぁだお詫びばかりをなされておられる。如何にね、自分の心の中に、大きい例えばね。まぁ、五燭光ぐらいの電気の光りで、信心によって光が灯る様になる。ね。それがね。百燭光千燭光、万燭光と云う様に、大きなそれこそ地上の太陽と、私共が仰ぎ。
又は思わせて頂いておった金光様。もう是以上の光りはあるまいと言う様な、光を心に灯される事が出来る様になったらです。もうお詫びばかり、お詫びばかりをしておると言う程しの事なのですから、まだ其処にも散らかっておる、此処にも汚れがあると言う事がお解りになった。ね。それでいても是程しのおかげを頂いてと言うておられる。お礼の足りないお詫びばかりを致しております。
そこに私は御道の信心の、究極の所があると思うんです。ですから私共も矢張り、それを一つの目当てとして、それに進ませて頂くと言うのです。ね。それにはね矢張り信心には、もうご自分が体験なさって仰っておられるお言葉です。ね。なんでもないお言葉ですけれども、そういうご修行を通されての、神信心にはね。辛抱する事が一番大切だと仰せられるのです。ね。そう言う意味でです、私はほんなら今日から始まる寒修行などはです。ね。せめて此の一月だけでもです。ね。
そう言う尊いあり方に神習わせて頂こう。本当に辛抱力を作らせて頂こう。眠くもある寒くもある。けれどもその寒い眠いを辛抱し抜いて、ね。庭の口を外へ出て見る事になるのです。そしてお広前に出てきて、初めて神に会おうと思えばという、言うならば神の声を聞く事が出来るのである。神の姿を其処に見る事が出来るのである。ね。そういう私は信心辛抱のね。言うならば力というか、所謂信心辛抱の徳とまで言われますけれどもね。そう言う心、そう言う状態で神に向う。
神は向こう倍力の徳を授けると仰せられる。ね。だから私共は、神様のご守護を受けておる。天地の守りじゃから、神は離れる事は出来ん。ほんにそうじゃなぁ、神様のご守護を受けておる。だから神恩報謝の心を持たなきゃならない。そう言う通り一遍の様な事では出来る事ではないのだ。ね。その分からせて頂いた事が実感としてですね。言わば有難い勿体ない。それこそ此の生きとし生ける物の上にですね。
その印をね。例えば何を見ても有難いね。自分の心の中に例えばホコリが、又は垢が汚れが着いておる。ね。それを見逃しにしないというのが信心です。だからこそ信心は日々の改まりが第一だとこう仰せられるのです。ね。そしてそれを、はわき清めるね。それを取り除く所の修行させて頂く。改まる所の修行をさせて頂いた、その後にスッキリした心が持たれる。だから一遍したけん、それで良いというのじゃない。又明日もその事に、矢張り取り組ませて頂くのがね。
日々にさらな新しい生きる力を感じる。生きる力が愈々、与えられるおかげになって来る。神信心には辛抱する事が、一番大切で御座いますと仰せられるのですから、ね。私共の辛抱力を愈々作らせて頂く。そしてその辛抱力がですもう辛抱せんで済む程しのおかげになって来る。ね。朝起きが出来なかった人が朝起きが楽になって来ると言う事。ね。時々お参りしよった人が、例えば日参させて頂く事が楽になって来る。言わば楽になって来るだけじゃない、もう有難うして楽しゅうしてと言う事になって来る。ね。
そこに私は神様へ向こう言わば倍力の徳が受けられるのは、成程と合点が行くので御座います。腕こまねいておっただけでは、ね。金光様のご信心は言わば解らない。ね。本気で私共がね庭の口を外へ出て見る。其処から始められて自分の心の状態を見極めさせて貰うてその心で神様へ向う。そして自分にもはぁ是がお徳と言う物であろうかと言う。今まで辛かった事が有難い事になって来るもう是はすでに徳です。ね。昨日の朝の御理解の中にも一昨日の御理解の中にもうこの寒修行で愈々。本気で信心を所謂。
頂く為の修行なのだから、ね。是は何の道だって矢張り修行と言うのがある。ね。だから本気で折角此処までも通うて来るのであるから、ね。本気で信心の稽古をさせて頂う。所謂信心を目当てにしたお参りをさせて頂うと言うのが、一昨日。昨日の御理解の中にはね、そんなら私共の様に身体の悪い人が、どうぞ健康になります様に、健康になります様にと言った様なお願いでは、いけんのだろうかと言うお尋ねに対して、神様はテーブルの上にね。あの牡丹餅がこう置いてある所を頂いた。ね。
そういう例えば健康になりたいから、お参りをして来ると言うそれが既に信心の稽古だと言うのです。お参りはして来んで庭の口を外へ出て見らんどいて、内からどうぞ合楽の金光様というて拝みあげたのじゃいかん。それでは棚から牡丹餅を願う様な物であってそれがいけんのであって、ね。今身体が悪い今難行に踏んまえておる。その難儀を感ずるからお参りをして来る。そのお参りをして来る事がです。手を打つ事も覚えりゃ天津祝詞も覚えりゃ大祓いも覚えさせて頂てです。もう既に信心の稽古が出来ておる。
それは言うならテーブルの上にある牡丹餅の様な物だと。ね。だからその牡丹餅だけの物ではなくてです。ね。本当に私共が限りないおかげを頂けれる信心と言う事になって参りますと又それではいけん。けれどもそれは小学生は小学生なりに、中学生は中学生なりに信心の稽古があるんだと言う意味の事を、昨日頂きました私共はお願いばっかりじゃから、是じゃもう信心は解らんのじゃろうかと言うのではないね。唯棚から牡丹餅を願う。今合楽で言われておる奇跡の連続と言う様な事なんか信心は無かってもね。
例えば一遍か二編か参ってお願いをしておかげを受ける。奇跡と言うのはね奇跡と言うのは、ね。信心も出来んのに頂くから奇跡なんです。信心してみかげのあるは不思議とは言うまじきものぞ。祈りとみかげの無い時は、是ぞ不思議なる事ぞと仰る様にです。そうして一生懸命の、例えばお参りが出来る。その様にして信心の稽古が出来て頂くおかげは、もう奇跡じゃない。当然の事だと教祖は仰る訳です。確かに合楽の今奇跡というのはです。信心が出来んなりに現れておる。それが奇跡なんですね。
それは沢山の人に神の実在を認めさせよう、解らせようという働きの事であろう。まだ大変な深い意味がありましょうけれども、私はそんな風に思うんです。ね。ですからその人、人の信心の程度に応じてです。所謂信心の稽古をさせて貰う。そしてその信心の稽古をさせて貰う、是はね。その一貫しておらなければならない物は、私共がね。神信心には辛抱する事が一番大切で御座いますと言う、大切な所を踏んまえての、一つ信心修行でありたいと思います。ね。
行のごとと申します、ね。もう本当にきちっとと言う意味でしょう。ね。もう行の様に一つ、此の寒修行が、ね。愈々ね信心の言うなら解らせて頂く、有難いと言う物が募りに募って行く様な、そう言うおかげを以って信心、一月間の寒修行を終わらして頂きたいという願いを持って一つ、寒修行に取り組みたいと思います。今日は十一節十二節、十三節から、今日の御理解を頂いて頂ましたですけれども、ね。神は向こう倍力の徳を授けるという、その言わば過程の所を聞いて頂いた様に思います。
どうぞ。